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美輪明宏

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

美輪 明宏みわ あきひろ1935年5月15日 - )は、日本の歌手俳優演出家タレント長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。

1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる四人兄弟の次男。

経歴

長崎時代

美輪の実家は長崎市内でカフェを経営していたが、1930年代当時の体制の右傾化にともない“敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ”と言われ、カフェを閉店、父は金融業に転業した。

しかし、原爆で父の貸付先が相次いで破産・他界した為、美輪一家は貧乏生活を余儀なくされ、加えて美輪の父の後妻が他界し、後々妻も失踪するなどの不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送った。

終戦後、11歳の時に観た映画に出演していた加賀美一郎ボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、高校進学のため15歳で上京する。

歌手 丸山明宏

1952年、17歳の時に銀座シャンソン喫茶『銀巴里』と専属契約し歌手デビュー。

1957年フランスシャンソンメケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツなどを身に纏うユニセックスファッションと、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手で出演しており、カラー映像で50年前の当時の美輪の姿を見る事ができる。

「衣装革命」と称し始めたこの活動も、当初はまだ保守的であった世間から冷遇され、全国紙に「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が掲載されたり、見も知らぬ人から石やビール瓶の蓋を投げ付けられもしたという。

『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化し、その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表(カミングアウト)した事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続いた。

しかし1963年には、中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く等、徐々に理解者が現れ始め、翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃した。

俳優 丸山明宏

1967年に、寺山修司演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に書き下ろした『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。

更に1968年三島由紀夫に熱望され舞台『黒蜥蜴』(くろとかげ、原作・江戸川乱歩、戯曲化・三島由紀夫)に主演し、歌舞伎新派の女形に続く現代女形の創始者として高い評価を得る。この『黒蜥蜴』は深作欣二により同年、映画化され、舞台同様にヒットした。また1990年代初頭にはニューヨークパリなどでこの映画が上映され、『ニューヨーク・タイムズ』誌にも取り上げられた。

『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』)といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また1970年からはTBSラジオラジオ身の上相談」を25年という長期に渡り担当する。

美輪明宏に改名

1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だった為丸山明宏から美輪明宏に改名。女優引退宣言(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)をし、舞台を離れ歌手活動に専念し始める。銀巴里ジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。

1978年枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より慢性気管支炎になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかし、その後も演劇では1979年エディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年の「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を好演している。

1983年には『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演した。更に1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。病状は深刻で、激しい咳のため肋骨が折れたこともあったという。

歌手としては1984年パリで、1987年にはパリマドリッドシュトゥットガルトでリサイタルを行い『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。

1990年東京芸術劇場こけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増え、リサイタルのチケットも入手しづらい状況になって来る。

黒蜥蜴再演以降

1993年、1985年の『大典礼』以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当し、以降上演される舞台は1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て主演する美輪自身の演出となり、多くの場合 美術・衣装・選曲も務め、脚本・振り付け(美輪明宏版 椿姫)原作(愛の讃歌)を兼ねた作品もある。

『黒蜥蜴』の再演は1993年以来1994年1997年2003年2005年2008年と続けられている。

1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演し、話題になる。この劇場側が用意した形式は1996年の再演時にも引き継がれるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」とのことで、結局2001年の再演では自ら初演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻され、決定版と言える公演となった。

1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上卒塔婆小町』をついに上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、ダリ尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。

1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』では山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞(審査委員長 北野武助演男優賞を受賞する。

1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になり、以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。

現在

2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。

一方でこの年、名作として名高いアルバム『白呪』が再発売され、桑田佳祐フジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったことが話題となり(美輪はそれをとても喜んだ)、元祖シンガーソングライターとしての美輪に注目が集まり始める。これ以降も槇原敬之米良美一を始めとして、多くのアーティストによる「ヨイトマケの唄」の優れたカバーが発表されている。長く放送自粛となっていた民放各局(NHKでは自粛対象ではなかった)で放送される機会も増え、ついに美輪自身もテレビ東京たけしの誰でもピカソ』内でこの曲を歌い、オリジナルシンガーならではの歌声を聴かせた。

2002年に芸能生活50周年を迎えた。この年には三島由紀夫の三十三回忌に際して「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演している。

2005年にはテレビ番組『オーラの泉』が始まり、「霊感タレント」として現在、芸能生活で通算5回目のブームの時期になっており、多くのテレビCMや音楽、バラエティ番組に出演するなど、中高生から第1次ブームの際のファンまで幅広い年齢層に人気がある。

人物

かつて実家が料亭カフェ銭湯など手広く経営しており、美輪はそこを遊び場として育った。そして、そこでボーイや女給・客達により繰り広げられる様々な人生模様を見る内、人を見る目が自然に養われたという。

芸能活動だけにとどまらず、テレビやラジオでの人生相談カウンセリングでもそのカリスマ的言動は注目されている。近年ではヴィジュアル系の元祖「美輪様」として大いに尊敬され、ゴスロリ系雑誌にインタビューが掲載される。

貧乏を経験している事から、駆け出しの役者などの面倒見がいい。秋野太作は新人のころ美輪に「あなたお腹すいてるでしょう」と言われ、うな重をおごってもらった事がある。渡辺えり子は「化粧をしないブスは漬物石にもならないわよ」と美輪に言われた上に楽屋で美輪に化粧を施された事がある。

大変義理堅い人物としても知られ、マネージャー、舞台スタッフ、バックバンドのメンバー、レコード会社の担当者など、30年、中には40年以上の関わりを持つ関係者が大半である。

天草四郎ならびに神功皇后の生まれ変わり」であると自称している天草四郎については、木村藤子が美輪の先祖であると発言している。。またフランス公演の際、インタビュー中「私の前世はサラ・ベルナール」と発言し現地の記者から喝采を浴びたと言う。地元の新聞・雑誌にBrava Miwaと賛辞とともに紹介された。

近年は『オーラの泉』の番組の影響もあって、非常に真面目な人物として認識されがちだが、実際にはウィットとユーモアに溢れた人物でもある。かつて『さんまのからくりTV』に出演した際には珍答・奇答を連発し、正解はなかったが "ナイスなボケ" に対して付与される「ナイスボケ」を4つ獲得し優勝した事もあった。また『トリビアの泉』に出演した際には「仮面ライダーウルトラマンの共演作があった」というトリビアを「こんな馬鹿馬鹿しいの大好き」と笑い、満へぇを打った。また、挨拶で「白鳥麗子でございます」「宮沢りえでございます」「もののけ姫でございます」と発言する事もある。

戦中を体験しており、被爆体験者であるゆえか、戦争に関するものは悉く嫌悪する。「トリビアの泉」では「タイ王国では徴兵の対象をくじ引きで決める」のトリビアが出た時には、顔を曇らせた。また、テレビの対談番組やラジオの冠番組で戦後言い訳ばかりに終始したとする帝国陸軍の将官の例を持ち出し、戦争を肯定・賛美する極右・保守論客に対して罵倒交じりの強い調子で批判していた。

入浴時には肌の為に石鹸を使用せず伯方の塩で身体を洗う。『トリビアの泉』で「伯方の塩は国産ではない」というトリビアを知ると、がっかりしたものの「海は世界でつながっているものね」と発言した。

三島由紀夫が自殺した翌年=1971年(自身36歳)頃には一気に白髪になったと語っている。長らく髪の毛を黒く染めていたが、最近は風水に基づき黄色く染め、更に絵画モナリザのようなロング・ヘアーにしている。従って現在地毛は黄色である(テレビで時折見かける栗色の短髪はウィッグ(=かつら)を被った姿)。自身の黄色く染めた髪の毛を指し「前世はピカチュウもしくはトウモロコシ」と発言していた。

また自宅で飼っていた犬の名前が「そうめん」、「ラーメン」、「ジャージャーメン」、「アラレ」、「ピカチュウ」だった時もあったらしい。

好きな食べ物は?との問いに、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの。」と発言していた福岡放送制作 日本テレビ系「新型テレビ」。実際は、出身である長崎名物のちゃんぽんカステラが好物である。

現在の愛車はトヨタ・クラシック。限定100台の高級車である。他にジャガー(ピンク色)、日産フィガロがある。

作家佐藤愛子北海道の自分の山荘でラップ現象などが発生した事を美輪に相談したところ、その山荘の状況を言い当て「あなた、大変な所に家を建てちゃったね」と佐藤愛子に言った事があるなど、霊感があり、数々の霊現象の体験があるという。また、占いや迷信に関しては「日本全国『道場破り』をした事があるのよ」といい、「全体の99%は偽者」とあらかたの占い師や霊能者を否定している。

しかし、その一方でスピリチュアルカウンセラーの江原啓之霊能者木村藤子の二人については認めている。また、江原に対するバッシングについては『極上の月夜』で「彼は本物。そんじょそこらの人とは違う」、「昔から(雑誌は)部数が落ちると一番話題になっている人を探して、ある事ない事でっち上げて見出しに名前を載せるのよ。それが出版界の手なのよ」と番組内で反論している。また、江原から自身に対するバッシングで仕事を辞めたいと相談されたと番組内で明かし、「一過性のものだから気にしないように」と江原を励ましたという。尚、昨今のスピリチュアルブームに関しては番組内で「スピリチュアルの中には営業的なモノと、本当に人を救おうってモノに分かれているのよ。人を脅かしたり、神秘とかおどろおどろしい味付けをしたりするのは偽者。それで騙してお金を巻き上げるオレオレ詐欺みたいなモノよ」と美輪流の見分け方を伝授している。また、そのような営業的なモノについては「偽者は物凄い死に方をする」と断言したが、羽鳥慎一アナウンサーの「それは今活躍している占い師の中にいるか?」との質問には「私は存じ上げません」と軽くかわした。ただ、過度なスピリチュアル傾倒については「自分を救えるのは自分しかいない」と戒めている。

自らが同性愛者であると明らかにしたために排撃された事と、裕福で厳格な家庭に育った友人が、振った相手(男性)から同性愛者だと暴露・非難されたがために、家族会議にかけられ吊るしあげられた結果、トイレで首吊り自殺してしまった体験から、LGBTのために戦おうと宣言。LGBTの権利拡大に心血を注いでいる。美輪は自著『紫の履歴書』に「男も人間なら女も人間。とすれば、男が女を愛し、男が男を愛し、女が女を愛しても、神の目から見れば、それはただ人間が人間を愛しているだけではないか」と書いている。

実名こそ挙げないものの「(同性愛で有名な)ある2人(おすぎピーコであろう)」に関しては、自分自身をマスメディアにおいて商業的に「オカマ」という自称で卑下しているため、LGBT全体に対する蔑視を広げてしまっているという事で今でも絶縁状態であるというピーコは糸井重里の聞き書きによる『ピーコ伝』(文藝春秋社)の中で美輪とのエピソードを語っている。それによると、舞台でシャンソンを歌っていたところ、客席にいた美輪から野次を飛ばされ、後日美輪の自宅に呼ばれたという。全体としては美輪に対する敬意を感じさせる内容となっている。

ファッション評論家など批評家に対して厳しい批判を行う(小林秀雄については、その評論が時代や内容を離れても、一個の芸術作品として通用する文章だとして評価している)。また、現代建築家達についてもその建築が機能性のみの造形であるなどとして、厳しく批判している。

顔写真は左側からしか撮らせない事で知られる(右側から撮った物は存在しない)。

交友関係

  • その監督作品RAMPOが美輪から絶賛されながら、松竹を追放された奥山和由に対しては、その後奥山が設立した会社「チームオクヤマ」の名付け親になるなど応援し続けている。
  • 華道家の假屋崎省吾が美輪の大ファンで美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される事を誇りにしており、美輪邸に花を飾らせてもらった事がある。
  • 交友関係のあった作曲家、古賀政男の最後の門下生であった佳山明生の名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとったものである)。

その他

2005年4月、『薔薇族』復刊号で伊藤文學編集長との対談に応じた。

2006年8月19日、NHKのスポーツ番組にゲスト出演した際、第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦(駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京))について、アナウンサーからの勝利予想の質問に対し「どちらも頑張っているので、引き分けになってほしいですね」と答えたが、翌日の決勝戦では本当に延長15回1-1の引き分けになってしまい、翌日再試合となった。

SMAP×SMAP』で、中居正広の前世がピカソであると発言したが、実は中居が生まれたころピカソはまだ生きていた。その後「あんな絵が描けるのはピカソしかいない」と言っているが、これは以前に同番組で中居が描いた絵がとんでもない構図をとっていたことに由来する美輪流のジョークである。また、『中居正広の金曜日のスマたちへ』の特番にゲスト出演した際には中居正広の前世を「あなたはキツネタヌキハーフで名前は『どん兵衛』という名前だったのよ。」と言った。もちろん、これも美輪流のジョークである。

講談社発行の月刊誌「現代」で、2007年9月号から2008年1月号まで美輪明宏の半生の評伝が連載された。著者はノンフィクション作家の豊田正義。タイトルは『オーラの素顔』。美輪の少年時代から始まり、赤木圭一郎との哀恋、三島由紀夫寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『オーラの泉』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれている。

主な出演作

舞台

映画

テレビ

その他多数

ラジオ

CM

携帯公式サイト

著書

単著

  • 『獅子の座ぶとん』 角川書店/角川グループパブリック 1986年 8月 ISBN 9784041550021
  • 『ほほえみの首飾り』 水書坊 1989年 4月 ISBN 9784943843498
  • 『紫の履歴書』 水書坊 1992年 11月 ISBN 9784943843641
  • 『光をあなたに』 メディアファクトリー 1995年 8月 ISBN 9784889913484
  • 『生きるって簡単』 佼成出版社 1996年 10月 ISBN 9784333018178
  • 『人生ノート』 パルコ出版局 1998年4月 ISBN 9784891945699
  • 『天声美語』 講談社 2000年 4月 ISBN 9784062101813
  • 『強く生きるために』 主婦と生活社 2000年 10月 ISBN 9784391124699
  • 『ああ正負の法則』 パルコ出版局 2002年 4月 ISBN 9784891946456
  • 『愛の話 幸福の話』 集英社 2002年 6月 ISBN 9784087803570
  • 『地獄を極楽にする方法』 主婦と生活社 2003年 10月 ISBN 9784391128659
  • 『霊ナァンテコワクナイヨー』 パルコ出版局 2004年 4月 ISBN 9784891946838
  • 『人生学校虎の巻』 家の光協会 2005年 3月 ISBN 9784259546717
  • 『戦争と平和 愛のメッセージ』 岩波書店 2005年 7月 ISBN 9784000236485
  • 『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』 集英社 2005年 8月 ISBN 9784943843646
  • 『世なおしトークあれこれ』 パルコ出版局 2007年 3月 ISBN 9784891947514

共著

関連項目

人物

外部リンク

脚注

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