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NHK紅白歌合戦

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

NHK紅白歌合戦(エヌエイチケイ こうはくうたがっせん)とは日本放送協会(NHK)が毎年12月31日第3回までは1月3日)の夜に生放送する、紅白対抗形式の大型歌番組である。通称「紅白」。会場はNHKホール1973年から)。デジタル双方向機能対応番組。

放送メディア・時間

  • 国内向けにはNHK総合テレビデジタル総合テレビ衛星第2テレビデジタル衛星ハイビジョンラジオ第1放送放送される。このうち、アナログ衛星第2テレビではBモードステレオ放送で、デジタル総合テレビ・デジタル衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョンでは5.1chサラウンドステレオNHKホールの臨場感を楽しめる。ラジオ中継では、客席上のラジオ中継席から、ステージ上で行われていることの実況とともに放送。海外向けにはNHKワールド・プレミアムとNHKワールド・ラジオ日本(地域により数時間遅れまたは後半部分のみの放送だが、2007年以降は東南アジア・アジア大陸地域の同時放送のみとなる。)で放送される。また、NHK主体ではないが、海外の現地ケーブルテレビチャンネル(主として日本専門チャンネル)を通じて放送されることがある(NHKワールド・プレミアム放送の際には字幕がないため)。
  • 開始時刻は1967年第18回)以来長らく21:00(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年第40回)から19:20に繰り上がった。その後、開始時刻は年によって19:20から20:00の間で推移している。第2部の開始は21時台、特に1994年以来は21:30に固定されている。
  • 終了時刻は1962年第13回)以来一貫して23:45である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。
  • 第1部と第2部の間の5分間(第505455回は10分間)は、その年の最後のNHKニュースを放送する。ただし、デジタル衛星ハイビジョンは別番組に差し替えとなる。第57回までは「デジタル紅白○○(西暦)」と題した独自番組を放送していたが、第58回では番組案内スポットを放送。
  • 総合テレビ・BS2・BSハイビジョンはリアルタイム字幕放送を実施(総合テレビ・BS2は中断ニュースも含む)。

番組内容

出場者の決定

話題性

  • 毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年第13回)の調査開始以降での最高視聴率は1963年第14回)の81.4%(関東地区、以下同じ)。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ。もっとも近年は地方でも民放局(殆どが平成)が開局し視聴できる裏番組が増えたことや生活の多様化などにより、視聴率は低落傾向にある。最低視聴率は2004年第55回)の39.3%である。それでも毎年、年間視聴率では民放の人気番組(ドラマ・バラエティ)を抑え、ベスト5にランクインしている(ビデオリサーチ調べ)。
  • 紅白への出演は翌年初頭のアーティストのCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては1986年第37回)出場の吉幾三の『雪國』(1987年2月9日付)、2002年第53回)出場の中島みゆきの『地上の星』(2003年1月20日付)、2006年第57回)出場の秋川雅史の『千の風になって』(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年第54回)に大トリを努めたSMAPの『世界に一つだけの花 (シングル・ヴァージョン)』はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。ただし、年末にはその他にも多くの歌番組が放送されることも影響して、紅白に出場していないアーティストの楽曲もチャートを上昇したり、あるいは紅白放送前の年末からチャートを上昇したりするといった傾向もあるため、必ずしも紅白のみによる現象ではない。そのため、「年末効果」とも呼ばれる。
  • 司会者や出場者、曲目などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は、NHKニュースはもちろん、民放各局の情報番組でも大きく報じられる。民放番組で「大晦日は○○(自局の大晦日特番)をご覧ください」などというように紅白報道の後に自局の大晦日特番の宣伝を行うことがよくある。このことは、紅白の話題を取り上げて自局の情報番組への注目度・関心度を高めたい一方、この報道によって紅白への注目度・関心度が高まって自局の大晦日特番から注目をそらしてしまうというジレンマを抱えていることを象徴している。芸能レポーター梨元勝によれば、民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのは『アフタヌーンショー』(テレビ朝日系)の突撃取材だったという(『週刊朝日』2006年12月29日号)。今でも民放の情報番組は紅白を無視できずにいる。
  • 舞台袖の通路は放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。
  • 2003年第54回)と2004年(第55回)ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。

歌唱中のパフォーマンス

  • 紅白では歌唱中に視聴者、観客を驚かせるような演出のパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子美川憲一の、ステージと一体化した豪華な衣装は特に有名である(「歴史」の「1970年代〜1990年代」の節を参照)。
  • 大トリ歌手の歌の場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。1981年第32回)の大トリ・北島三郎の「風雪ながれ旅」では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった。
  • 番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年第57回)のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう、歌番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。
  • *1982年第33回) - サザンオールスターズ桑田佳祐三波春夫パロディ化した衣装と歌い方をした。「裏番組(を見たい場合)は録画しましょう」という発言で、賛否両論が巻き起こった。
  • *1985年第36回) - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。
  • *1991年第42回) - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
  • *1992年第43回) - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームをいくつも巻きつけて登場した。
  • *2006年第57回) - DJ OZMAが全身肌色のボディスーツを着て股間の部分にキノコの模型をつけた姿で舞台に登場。女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかも老若男女が視聴する時間帯である事の配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。総合司会の三宅民夫アナが番組中に「全裸ではない」と説明した。その後放送倫理・番組向上機構(BPO)から回答要請を受けた。

観覧方法

  • NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎年多数の応募が集まるため、抽選となる。
  • 毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月の初旬頃に応募が締め切られる。
  • 抽選の結果(当落)は返信はがきの裏面に印刷され、12月上旬に応募者のもとに届けられる。
  • 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚につき2人までNHKホールに入場できる。
※最多の応募総数は2004年(第55回)の759,772通(当選倍率:約500倍)
なお2006年(第57回)の募集から、応募資格が次のいずれかに制限される事になった。 #「NHK受信料を支払いしている者」(銀行口座からの引き落としでも可能) #「新たにNHK受信料を支払いする者」 #「NHKが定めている受信料免除者」 #「上記のいずれかにあてはまる世帯家族)」
上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。

これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開収録番組の応募(例:NHK歌謡コンサート)で実施されていたものと同様である。ただし規則で禁止されている当選はがきの転売行為については全く対策がなされていないため、NHK側からして相応しくない人物(受信料不払い者)が入場する可能性もある。

歴史

開始当初〜1960年代

  • 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送された。番組は近藤積(つもる)ディレクターの発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を製作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し、木琴マンドリン尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白歌合戦には出場していない)。
  • 当初はこの1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から放送の5年後の1951年からタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。第1回の白組トリ及び大トリは藤山一郎で、「長崎の鐘」を歌った。1953年第3回)では、テレビでの実験放送が実施された。当初、第3回までは正月番組として放送されていたが、この年の12月31日には第4回が放送され、テレビでの本格的な放送開始を機に、以降大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の収録・生放送を行った理由は当時年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となった。
  • 会場は第1〜3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。ラジオ・テレビ同時放送開始(第4回)以降は東京宝塚劇場日劇日比谷公会堂産経ホール新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年第24回)以降は渋谷のNHKホールに固定されて今日に至る。
  • 黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年第5回)から録音していたテープが1999年末に発見された。一方、現存する映像は1963年第14回)が最古である。1962年第13回)はニュース映画で紹介された映像が残っている。なお1964年第15回)よりカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存しない。1964年を除いた1963年以降の1960年代の現存映像は白黒のみ(1965年はカラー版が部分的に現存している)で所々激しくぶれる。1970年は(第21回)カラーで現存するがフィルム映像でとても汚く、一部が欠落している。1971年(第22回)もカラーで現存するが一部が欠落している。1972年(第23回)からNHKがVTRで保存するようになり、それ以降の現存映像はカラーで安定している。
  • 黎明期(1956年第9回)頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年第8回)を以て戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年第10回)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌1960年第11回)では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章が、1961年第12回)では当時NHKで放送中であった「夢であいましょう」の「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになってゆく。そして1962年第13回)では前年まで連続出場していた淡谷のり子林伊佐緒伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
  • テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が1962年(第13回)から開始される。翌年(第14回)において81.4%の視聴率を記録するNHK総合「紅白歌合戦」の視聴率, Video Research Ltd., 2008年1月17日。これは、紅白史上およびビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。
  • 美空ひばりは1963年(第14回)から東京宝塚劇場での最終開催となった1972年第23回)まで一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。だが、翌1973年(第24回)に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕された事が発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の紅白も落選となった(その後、1979年第30回)に藤山一郎と共に「30回記念特別ゲスト」扱いで出場、「リンゴ追分」などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となってしまった)。
  • 1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く、加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。1967年第18回)のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルーコメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルタレントが長髪にする例も出たため、当然ながら長髪は解禁になった。1989年第40回)にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年第50回)にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。
  • 沖縄米国の施政権下にあったため、1964年第15回)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌年の1965年第16回)から沖縄テレビスポンサーをつけるという形で放送を開始した。1968年沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると、その年(第19回)から同局での放送となり、ようやく本土と同じ内容になった。1972年の本土復帰で沖縄県が再発足すると沖縄放送協会はNHK沖縄放送局となり、同時に1945年以来中断していたラジオ放送が再開されると、その年(第23回)から沖縄でもラジオ中継を開始した。
  • 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
  • 詳細は以下を参照。
1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年

1970年代〜1990年代

  • 1970年代になると新三人娘新御三家花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージックロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。「若い人の歌う歌は分からない」と高年層から文句が出るようになったのもこれ以降である。1973年第24回)に初出場が当確と見られていた西城秀樹が「アクションが激しすぎる」という理由で落選した事は当時の世相を物語る出来事であった。
  • 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年(第24回)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年第29回)にも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(別番組の「レッツゴーヤング」では「真っ赤な車」として歌った)。
  • *2004年にも松平健の「マツケンサンバ?」で、松平を示す「マツケン」が規制の対象となった場合の歌詞の扱いについて作詞者・吉峰暁子と協議している旨が一部で報じられたが、実際には規制されなかった。
  • 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年第25回)から9年間白組司会を務めた山川静夫が降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会1982年第33回)の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年第35回)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後はテレビの音楽番組が減るなど状況の変化もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。
  • 1989年第40回)から紅白は2部構成になった。この年に昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
  • 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの一つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年第36回)の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年第37回)の「別離(わかれ)」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年第42回)の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林および美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。
  • 1981年第32回)から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は舞台の後ろから入場行進をするようになった。また応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ばあたりから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年第42回)から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオにて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよくいわれる。2002年第53回)ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。
  • 1970年代までオープニングの入場行進で流れていた「乾杯の歌」(別名「スタイン・ソング」。作曲:E・A・フェンスタッド。ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは第31・32回および36〜38・40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは「乾杯の歌」のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、近年は司会者および出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。
  • 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年第47回)の出場者のうちTRF安室奈美恵華原朋美globeらが「小室系」の歌手であった。
  • 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPANLUNA SEAGLAYL'Arc〜en〜Cielらが出場した。また、J-POPの歌手も比較的に出演へ積極的であったこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入った。
  • 詳細は、以下を参照。
1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年

2000年代〜

  • 21世紀の紅白は国民の生活様態の多様化などに加えてBSでも見られることなどから、地上波放送の視聴率が減少傾向にある。紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。特に2000年11月にロックバンドGLAYが年越しライブを優先するため紅白を辞退したことは話題となり、「GLAY紅白辞退」のニュースは新聞紙紙面のトップを飾った。その他にも紅白出演が何度も望まれていた宇多田ヒカルの「紅白を見たことない」発言が物議を醸したこともあった。そのため、全盛期を過ぎていたり、CD売り上げや知名度があるとはいえないような歌手が多く出演するようになり、視聴率は再び近年40%前後へと低下している。
  • 2002年(第53回)以降、演歌歌手の出演数が半分以下になったため、演歌ファンの中には演歌や懐メロ中心の裏番組『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京)を見る人も増えている(BSジャパンでも同時放送されているため日本全国で視聴可能)。演歌歌手も「年忘れにっぽんの歌」への出場に目標を変える傾向が強くなっている。
  • 比較的キャリアを積み人気も一定以上になった歌手はもはや紅白に関心を示さず、自身が主催する「年越しライブ」を行うことも増えつつある。J-POPの歌手も紅白を避け、『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)や『ミュージックステーションスーパーライブ』(テレビ朝日系)、『CDTV年越しプレミアライブ』(TBS系)などの年末音楽番組への出演を選択する傾向が高まっている。
  • 一方でモーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ大塚愛倖田來未エイベックス勢、aiko中島美嘉絢香コブクロスキマスイッチ、など、紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手」は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い。さらに中島みゆき松任谷由実など大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。
  • SMAPは2003年第54回)に大トリを務めた。グループとしては史上初、ポップス歌手としては1978年第29回)の沢田研二以来25年ぶりだった。しかし、翌2004年第55回)には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年第56回)には2度目の大トリを努め、視聴率上昇に大きく貢献した。
  • 個人のスケジュールの都合やイメージ戦略により会場以外の場所から中継出演する歌手も多くなっており、紅白の重鎮的存在である和田アキ子北島三郎が苦言を述べたこともある。
  • 2001年(第52回)から2004年第55回)までは当時の海老沢勝二NHK会長の強い意向により同局アナウンサーが全ての司会を担当した。
  • 2004年には紅白も担当したNHKプロデューサーが5千万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、初めて「紅白に出場してほしい歌手」と題された世論調査が実施され、翌2005年第56回)には出場者選考参考アンケートと位置付けされた『スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』が実施され、2007年には紅組・白組いずれにも属さない「特別枠」が新設された。しかし、いずれも辞退組を出場に至らせることは出来ていない。
  • 2006年以降の元日、総合テレビでは紅白終了の40分後に紅白の常連となっているさだまさし司会の生放送番組『年の初めはさだまさし』が放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに登場する者もいる。また、さだはこの中で爆弾発言をすることがあり、紅白の視聴者を他局へ逃げさせない工夫となっている。
  • 2007年(第58回)から2009年第60回記念)までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年(第58回)はクイズ特番クイズ紅白検定』が行われた。
  • 詳細は、以下を参照。
2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2009年

審査方法の歴史

  • ?〜1962年 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。
  • 1963年・1964年 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。
  • 1965年〜1968年 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会者がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。
  • 1969年〜1980年 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両チームの得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。
  • 1981年から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986〜91年は行われず)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。団扇の得票数をボールの個数に置き換え、特別審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。
  • *なお、日本野鳥の会がこれを担当したのは1981〜85年と1992年のみであり、1993〜2002年は麻布大学野鳥研究部が担当している。日本野鳥の会および麻布大野鳥研究部によると、紅白用にわざわざスケジュールを空けているという。
  • 2002年から客席審査員(2002年は観客の一部、2003年は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これは、NHK総合の人気番組『爆笑オンエアバトル』の方式によるものである。
  • また2002年からはデジタル放送(2002年からはBSデジタル放送、2003年からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった(リモコンで紅組の場合は赤ボタン。白組の場合は青ボタンを押して投票。)。
  • *申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。
  • 2005年には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける「ポップジャム」のブレイクレーダー方式が用いられた。
  • 2006年からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、この回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換える形となった。
  • *中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個ずつ。
  • *最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個ずつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。この関係で状況によっては(通常の大会ではこのボールが奇数になるためにありえなかった)引き分けによる両軍優勝の可能性もあった。
  • *「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。
  • 2007年は「ケータイ審査員」が50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となり、審査方法は再び審査員の投票総数で勝敗を競う方式になった。これには中間審査の票数も加算される。
  • *中間審査は前年までの1回から2回に増える(投票開始時間は20:00頃、21:15頃、23:35頃。投票可能時間は約3分)。
  • *審査結果発表は例年のボールを使う方式ではなく、東京タワーライトアップの色が紅か白に変わる事で発表(通常の照明を消した後に紅か白を点灯する)。

各回の概要

歴代司会者と勝敗

回数style="background-color:#C0C0C0"|放送日style="background-color:#ff7e7e"|紅組司会style="background-color:#ffffff"|白組司会style="background-color:#f7e7a8"|総合司会style="background-color:#C0C0C0"|勝
第1回1951年1月3日加藤道子藤倉修一田辺正晴
第2回1952年1月3日丹下キヨ子
第3回1953年1月2日本田寿賀宮田輝志村正順
第4回1953年12月31日水の江滝子高橋圭三北出清五郎
第5回1954年12月31日福士夏江石井鐘三郎
第6回1955年12月31日宮田輝
第7回1956年12月31日
第8回1957年12月31日水の江滝子
第9回1958年12月31日黒柳徹子
第10回1959年12月31日中村メイコ
第11回1960年12月31日
第12回1961年12月31日穂坂俊明
第13回1962年12月31日森光子宮田輝石井鐘三郎
第14回1963年12月31日江利チエミ
第15回1964年12月31日
第16回1965年12月31日林美智子
第17回1966年12月31日ペギー葉山紅 
第18回1967年12月31日九重佑三子
第19回1968年12月31日水前寺清子坂本九宮田輝
第20回1969年12月31日伊東ゆかり
第21回1970年12月31日美空ひばり宮田輝北出清五郎
第22回1971年12月31日水前寺清子鈴木文弥
第23回1972年12月31日佐良直美山川静夫
第24回1973年12月31日水前寺清子
第25回1974年12月31日佐良直美山川静夫土門正夫
中江陽三
第26回1975年12月31日相川浩
第27回1976年12月31日
第28回1977年12月31日
第29回1978年12月31日森光子
第30回1979年12月31日水前寺清子中江陽三
第31回1980年12月31日黒柳徹子
第32回1981年12月31日生方惠一白(22-11)
第33回1982年12月31日紅(19-16)
第34回1983年12月31日鈴木健二タモリ白(19-10)
第35回1984年12月31日森光子生方惠一紅(31-2)
第36回1985年12月31日森昌子千田正穂紅(22-11)
第37回1986年12月31日斉藤由貴
目加田?子
加山雄三
千田正穂
吉川精一
第38回1987年12月31日和田アキ子加山雄三紅(18-9)
第39回1988年12月31日杉浦圭子白(19-8)
第40回1989年12月31日三田佳子武田鉄矢松平定知紅(20-7)
第41回1990年12月31日西田敏行白(13-4)
第42回1991年12月31日浅野ゆう子堺正章山川静夫紅(8-7)
第43回1992年12月31日石田ひかり白(15-2)
第44回1993年12月31日森田美由紀白(21-6)
第45回1994年12月31日上沼恵美子古舘伊知郎宮川泰夫紅(9−8)
第46回1995年12月31日宮本隆治
草野満代
白(13−4)
第47回1996年12月31日松たか子白(9−4)
第48回1997年12月31日和田アキ子中居正広宮本隆治白(9−4)
第49回1998年12月31日久保純子紅(9−4)
第50回1999年12月31日中村勘九郎白(7−6)
第51回2000年12月31日和泉元彌紅(9−4)
第52回2001年12月31日有働由美子阿部渉三宅民夫白(9−4)
第53回2002年12月31日紅(9−6)
第54回2003年12月31日有働由美子
膳場貴子
阿部渉
高山哲哉
武内陶子白(15−0)
第55回2004年12月31日小野文惠阿部渉堀尾正明紅(8−5)
第56回2005年12月31日仲間由紀恵山本耕史みのもんた
山根基世
第57回2006年12月31日中居正広三宅民夫
黒崎めぐみ
白(13−5)
第58回2007年12月31日中居正広笑福亭鶴瓶松本和也
住吉美紀
#一部の回の優勝チームと一緒に載っている括弧の数字は、最終審査結果を発表した時の紅白のボールの数。 #ジンクスとして前年優勝の紅組司会者が翌年も司会をした場合、連勝した事がない。過去に中村メイコ・江利チエミ・佐良直美・黒柳徹子・和田アキ子・三田佳子・上沼恵美子・久保純子アナウンサー・有働由美子アナウンサーが紅組優勝の翌年も連続で司会を行っているが、すべて敗れている。ちなみに佐良直美・黒柳徹子は2度連勝のチャンスがあったが2回とも失敗している。ただ連続ではないが、水の江滝子は2連勝している。また、ジンクスとしては他にも女性アナウンサーが総合司会を担当すると必ず紅組が敗れると言うものや、放送年か放送前年に大河ドラマか朝ドラに主演・出演した女優・タレントが紅組司会をすると敗れると言うものがある。ただ、こちらも例外として1986年の大河主演の三田佳子は1989年に司会をした際は優勝している。 #総合司会のうち第18回までと第25回の土門・中江両アナウンサー、第34回のタモリ、第45回の宮川アナウンサーは厳密には「進行役」という名義の下で出演した。 #第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表された。ただし実際の放送では仲間由紀恵が紅組歌手、山本耕史が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのもんたは実質上生放送のすべての進行を統括する総合司会的な役割、山根アナウンサーは進行役的役割という形で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。 #第58回を終えた時点での通算成績は、紅組28勝・白組30勝で白組がリードしている。 #連勝は第58回終了時点では、双方ともに3連勝が最高である。

歴代トリ歌手とその曲目

回数style="background-color:#C0C0C0" rowspan="2"|年style="background-color:#ff7e7e" colspan="2"|紅組トリstyle="background-color:#ffffff" colspan="2"|白組トリ
歌手曲目歌手曲目
第1回1951年渡辺はま子(初)桑港のチャイナ街藤山一郎(初)長崎の鐘
第2回1952年渡辺はま子(2)火の鳥藤山一郎(2)オリンピックの歌
第3回1953年
1月
笠置シヅ子(2)ホームラン・ブギ灰田勝彦(2)野球小僧の歌
第4回1953年
12月
淡谷のり子(初)アデュー藤山一郎(4)丘は花ざかり
第5回1954年渡辺はま子(4)東京の薔薇霧島昇(3)石狩エレジー
第6回1955年二葉あき子(6)バラのラムバ藤山一郎(6)ニコライの鐘
第7回1956年笠置シヅ子(4)ヘイ・ヘイ・ブギ灰田勝彦(4)白銀の山小舎で
第8回1957年美空ひばり(2)長崎の蝶々さん三橋美智也(2)リンゴ花咲く故郷へ
第9回1958年美空ひばり(3)白いランチで十四ノット三橋美智也(3)赤い夕陽の故郷
第10回1959年美空ひばり(4)御存知弁天小僧春日八郎(5)東京の蟻(あり)
第11回1960年島倉千代子(4)他国の雨三橋美智也(5)達者でナ
第12回1961年島倉千代子(5)襟裳岬三波春夫(4)文左たから船
第13回1962年島倉千代子(6)さよならとさよなら三橋美智也(7)星屑の街
第14回1963年美空ひばり(8)哀愁出船三波春夫(6)佐渡の恋唄
第15回1964年美空ひばり(9)(やわら)三波春夫(7)俵星玄蕃(たわらぼしげんば)
第16回1965年美空ひばり(10)橋幸夫(6)あの娘と僕
(スイム・スイム・スイム)
第17回1966年美空ひばり(11)悲しい酒三波春夫(8)紀伊國屋分左衛門
第18回1967年美空ひばり(12)芸道一代三波春夫(9)赤垣源蔵
第19回1968年美空ひばり(13)熱祷(いのり)橋幸夫(9)赤い夕陽の三度笠
第20回1969年美空ひばり(14)別れてもありがとう森進一(2)港町ブルース
第21回1970年美空ひばり(15)人生将棋森進一(3)銀座の女
第22回1971年美空ひばり(16)この道をゆく森進一(4)おふくろさん
第23回1972年美空ひばり(17)ある女の詩北島三郎(10)冬の宿
第24回1973年島倉千代子(17)からたち日記北島三郎(11)帰ろかな
第25回1974年島倉千代子(18)襟裳岬森進一(7)襟裳岬
第26回1975年島倉千代子(19)悲しみの宿五木ひろし(5)千曲川
第27回1976年都はるみ(12)北の宿から五木ひろし(6)愛の始発
第28回1977年八代亜紀(5)おんな港町五木ひろし(7)灯りがほしい
第29回1978年山口百恵(5)プレイバックPart2沢田研二(6)LOVE (抱きしめたい)
第30回1979年八代亜紀(7)舟唄五木ひろし(9)おまえとふたり
第31回1980年八代亜紀(8)雨の慕情五木ひろし(10)ふたりの夜明け
第32回1981年森昌子(9)哀しみ本線日本海北島三郎(19)風雪ながれ旅
第33回1982年都はるみ(18)涙の連絡船森進一(15)影を慕いて
第34回1983年水前寺清子(19)あさくさ物語細川たかし(9)矢切の渡し
第35回